【日本語人と英語人】言語を通したコミュニケーションの大切さ
【日本語人と英語人】言語を通したコミュニケーションの大切さ
私は帰国子女で、3歳から8歳までアメリカのロサンゼルスで育った。現地の小学校に通い、週末は日本人学校で日本語を勉強していた。アメリカから日本に帰ってきたのが小学校3年生の時。一番驚いたのは、みんな同じ髪と肌の色だったこと。すごく不思議な光景だった。アメリカにいた時のベストフレンドは韓国人、アメリカ人、中国人と様々。でも、何人かはあまり気にしていなかった。肌の色や髪の色といった見た目は違って当たり前だった。うちの両親曰く、私たち(私と妹)が人を区別する時は、国籍や見た目ではなく、コミュニケーションを取れる言語だったそうだ。「この人は英語を話す人、この人は日本語を話す人」そうやって区別していたらしい。韓国人の両親を持っていても、アメリカで生まれた子もいたから、もはや何人かなんて定義のしようがない。見た目では全く判断できないのだ。だから、どの言語でコミュニケーションを取る人なのかが重要だったし、私は今でもそうだと思っている。同じ国に住んでいても、前提となる文化や常識も全然違う。日本人だからといって、誰一人として同じではない。だから、コミュニケーションはすごく大事なのだ。相手が何を考えているのか、自分は何を考えているのか、お互いにシェアする。自分と違うことを責めたり、否定したりはしない。あなたはそう思うのね、私はこう思うよ。アメリカにいた時はそんな世界だった。日本人の「阿吽の呼吸」とか「空気を読む」という能力はとても特殊な能力だと思う。大切にすべきだと思う一方で、同じ文化や常識を共有していないとなかなかできないからこそ、今、若い子たちとはなかなかうまくここが作用しないのではないかと思う。でもそれは当然。生きている時代が全然違う。だから、同じ日本人だから必ず持っている能力というわけではないし、これからもっとそうでない時代になっていくのだと思う。一人一人違うのは当たり前。血のつながる親や兄弟でさえ、相手の考えに同意できない場面は多々ある。だから、自分と違うものを否定したり、排除したりしないでほしいし、もっと相手のことを知ろうとするコミュニケーションを大事にしてほしい。自分とは違うかもしれないけど、相手は相手として理解する。別に相手に合わせて、同意したり、賛同する必要はない。ただ、相手はそういう考え方なんだなと理解すればいい。日本人同士だとしてもそれぞれ意見は違うのだ。私は小学校・中学校と、世に言う同調圧力にけっこう苦しんだ。自分の意見を言うと白い目で見られた。違う服装をしていると変だと言われた。クラスメイトをみんなと一緒になっていじめてしまったこともあった。(いい気持ちは全くしない・・・)自分のタイミングでトイレに行きたいのになんとなく友達と一緒にトイレに行っていた。面倒くさいけど、友達がいないことが一番悲しかったし、辛かったから、子どもなりに人の顔色を見て自分の行動を選択していた気がする。日本人とかアメリカ人とかではなく、日本語を話す人、英語を話す人として、これからもその言語を通じてコミュニケーションが取れることを大事にしたいと思う。言語は面白い。私は東京外国語大学で英語を専攻していたが、第二言語でスペイン語、韓国語、中国語を勉強していた。残念ながら会話できるレベルまでには至っていないのだが、引退して超暇になったらできるだけ多くの言語を勉強して人とコミュニケーションが取れるようになりたいと思っている。死ぬまでにやりたいことリストの1つだ。スペイン語、イタリア語、フランス語、中国語、デンマーク語、韓国語、タイ語、マレーシア語、インドネシア語、マルタ語、アラビア語、ヒンドゥー語、ビルマ語、カンボジア語今まで旅行した先々で言葉が通じたらどんなに楽しいだろう!!相手の考えていることがわかったらどんなに面白いだろう!!世界75億人の中で、親しく会話をして共に働く人や友達はたったの300人程度だという。0.000004%、つまり出逢いは250万分の1の奇跡なのだ。目の前の人との会話をもっと楽しんでほしい。相手を見た目や国籍で判断せずに、せっかく使える共通言語を通してお互いを知り、理解しようとすることがコミュニケーションの楽しさだと思う。