私たちは、何も、しらない。世界のアパレル界を支える私の国の現実
私たちは生まれながら、あなたたち先進国を支えてきた。今度は、あなたたちの番だ。 今、私たちには心ある行動が必要です。 縫製工場の現実と、エシカル消費の未来を共に歩みだそう!
世界の服を作る、バングラデシュの縫製産業バングラデシュ(旧東パキスタン)は、1971年に西パキスタンとの戦争を経て独立したばかりの、まだまだ若い国です。独立後の政治体制は不安定で、地理的にも洪水などの自然災害が起こりやすいことから経済面での成長が遅れており、主力産業も農業のみでした。まだまだ貧困な国としてのイメージが強いバングラデシュですが、その経済に一筋の光を射したもの、それが縫製産業でした。1980年代から芽吹いた縫製産業は、わずか10年の間に飛躍的な発展を遂げ、あっという間に経済の柱となったのです。皆さんが着ている洋服のタグを見てみてください。もしかしたらバングラデシュ製ではないですか? これまで、ほとんどの服が中国製だったかもしれませんが、現在ではバングラデシュ製の服もたくさん流通しているんです。縫製産業は、バングラデシュにおける輸出額のおよそ80%を占め、GDPのおよそ12%に値します。この値を見るだけでも、縫製産業がバングラデシュの経済をいかに支えているかを理解できると思います。まだまだアジアにおいて「最貧国」と称されるバングラデシュですが、他国からの援助に頼りきるのではなく、縫製産業における貿易により、安定した経済を生み出そうと頑張っています。縫製産業がもたらしたものは、経済の発展だけではありません。多くの人々に雇用の機会も生み出したのです。その対象となる人々は、地方出身者や、生活が貧しい人々、そして女性です。近隣国のインドやパキスタンでは、女性の労働率は約20〜22%であるのに比べ、2019年におけるバングラデシュでは36%に達しました。縫製工場で働く人々の内、約80%が女性なのです。男性中心社会において、これは女性が社会に進出する新たな取っ掛かりとなりました。雇用の機会を増やし、貧困層や女性の社会進出を後押しした縫製工場。しかし、そこで働く労働者の労働条件については、実は考えるべき点が多くあります。ラナ・プラザの悲劇“Dhaka Savar Building Collapse”, by rijans, licensed under CC BY-SA 2.02013年4月、首都ダッカ近郊にある商業ビル「ラナ・プラザ」が崩落し、1,000人以上が亡くなる事故が起こりました。ビルには縫製工場が入っており、事故が起こった当日も、いつも通り従業員たちは工場で働いていました。しかし、後の調査により、ひびの入ったビルの状況に気が付いた従業員たちがおり、マネージャーにも報告され、警察からは検査のための退去命令が出ていたという事実が発覚したのです。それでは、なぜ従業員たちはビルで仕事をしていたのでしょう。それは、元請けの企業から依頼を間に合わせるため、従業員には働いてもらわなければ困るからです。マネージャーたちは、従業員に対し、仕事に戻らなければ解雇をするとすら伝えており、こうした大事故で多くの方が亡くなり、怪我をする事態になったのです。この事故をきっかけに、「H&M」や「ユニクロ」など20か国以上の大手アパレル企業が再発防止のための協定を結び、下請け工場における安全面が見直されることとなりました。しかし、現在においてバングラデシュのすべての工場の環境が是正されたとは言えません。いまだに最低賃金で、密集し合い、衛生状態も良くない環境で長時間働かざるを得ない人々が多くいるのです。とても良いとは言えない条件や環境で彼らが働き続けるのはなぜか。その一番の理由はお金が必要だからです。田舎の貧しい暮らしから脱し、家族を支えたいと願う彼らにとって、縫製工場は希望そのものなのです。しかし今、その希望が陰り、バングラデシュ縫製産業に危機が訪れています。私の使命、それはバングラデシュの人々を支えることCOVID-19により、多くの国で経済が低迷しました。バングラデシュももちろん例外ではありません。国の経済を支えてきた縫製産業自体への需要が少なくなってしまったのです。需要がなくなれば、人件費を削減しなければなりません。そのためバングラデシュでは多くの人々が解雇されています。解雇された人々は、もともと今の暮らしに精いっぱいで、明日を生き、家族を支えるためのお金を必要としていました。そんな彼らが職を失ってしまったらどうなってしまうのか・・・。バングラデシュには、失業者を支援する失業保険がないため、国からの援助も期待できません。深刻な不況から世界経済が立ち直っていくにつれ、縫製産業への需要も徐々に回復していくかもしれません。しかしそれを待っていては、多くの人の命が失われるかもしれないのです。まさに今、バングラデシュへの救済が必要です。私はこうした状況をなんとか打開すべく、人々を支援するプロジェクトを立ち上げようと決意しました。――プロジェクトをどのように行っていくをお話しする前に、私自身について、紹介させてください。私はバングラデシュの中心部である首都のダッカで生まれました。私の両親は、学校教育の大切さを理解しており、女性は家庭に入るものという考えではなく、これからの国際社会で活躍すべきだという信念をもっていました。これは私にとって幸運なことであり、男女の区別なく、愛情をもって育てられました。特に私のアブ(バングラ語で「父」)は、私の将来に対して大きな期待を寄せ、私の未来への道しるべとなってくれたのです。アブはよく私に話してくれました。「家が貧しかったから、私は高校を中退して仕事をしないといけなかった。でも、おまえたちにはやりたい夢を追い続けてほしい。そのためのバックアップはなんでもするからね」。アブはきっと、勉強を続けたかったのでしょう。実際に彼は大人になってからも学ぶことを止めず、さらには私に直接 勉強を教えてくれたのです。通常、バングラデシュでは学校が終わった後、家庭教師の先生に指導を受けます。裕福な子供だけではなく、ほとんどの家庭がそうしています。しかし、私には家庭教師はいませんでした。なぜならアブがいたからです。アブは毎朝5:00には起き、まだ眠る私のために課題を用意してくれました。夜には直接勉強を教えてくれ、そのおかげで私の成績はいつも優秀でした。私には他に姉と弟がいるのですが、これだけの厚い教育をしてくれたのは、唯一私にだけでした。なぜ私にこれだけの力を注いでくれたのか。それはおそらく、私が生まれたときのエピソードに関わると思います。私が生まれたとき、アブのお母さん、つまり私のばあちゃんが私を見るや否や、「この子はきっと、おまえの誇りになるような子に育つよ」とアブに言ったそうです。なぜおばあちゃんがそのように感じたのかはわかりません。しかし、アブはその言葉をきっと信じたのです。まだまだバングラデシュは男性を中心とした社会です。これだけ男女の区別なく、子供たちの未来を考えた教育をしてくれる家庭は一般的であるとは言えません。やがて私は日本の文化に惹かれ、いくつかの奨学金を得ながら勉強を続け、最終的に、日本の大分県に留学することができました。日本では、視野を広げるために多くの文化活動に従事しました。バングラデシュとは異なる文化は実に刺激的で、毎日新しいことに魅了されました。日本人だけでなく、他国からの留学生とも友人となり、彼らとの議論を通じてこれからの世界でどのように生きるべきか、ワクワクしたことを覚えています。しかし、日本に来て2年目がちょうど始まったころ、私の人生は永遠に変わってしまったのです。私のアブが亡くなりました。彼が亡くなるたった二カ月前、私は帰郷し、病気で痩せたアブに微笑みながら、日本での学びについて話したばかりだったのです。私が受けたショックは想像以上のものでした。悲しみは果てしない嵐のように押し寄せ、息ができないくらい涙があふれ、なぜ、アブの最期の時に側で手を握ってあげることが出来なかったのか、とても後悔しました。私たち家族は皆、アブが亡くなるその日が遅かれ早かれが来ることを知っていましたが、こんなに早く訪れるとは思ってもみませんでした。私は一時、日本で学ぶ生活よりも、幼い頃の思い出にこれからを生きるためのよすがを見つけようとしました。学校で褒められたことを伝えたときの父の笑顔。誤ったことをしたときに厳しく教えてくれた父の声。一つひとつ記憶を紐解いていくなか、ふいに、ある光景が脳裏によぎりました。それは、私が日本へ出発する日のこと。空港での見送りの時に、アブは私と同じ栗色の瞳でじっと私の顔を見つめ、こう言ったのです。「タニア。一人で日本に行くことになるけど、でも決して一人じゃない。いつでもお父さんが側にいることを、忘れてはいけないよ」私は、決して一人ではないと、自分の体を抱きしめました。彼の愛情により、ここまで成長し、日本にいる自分自身の体の重みを、その時はっきりと自覚したのです。これまで、私の人生を支えてくれたアブ。しかし、彼はもういません。私はこれから自分の人生を自らの力で切り開くことができることを、彼に示し、安心してもらわなければなりません。彼は非常に優秀な役員であり、私自身も母国・バングラデシュにふさわしい大義に殉じなければならない、そう強く感じました。私のアブがそうであったように、私も自分の国に貢献する時がいずれ来ることを知っていました。彼の足跡をたどり、自分のやり方で社会の力になることは、私にとっての夢だったのです。家族で旅行に行った時の写真。中央の赤い服を着た少女が私で、当時6歳でした。届くことのない、人々の声と現実私は初め、具体的に何をしたらいいのかわかりませんでした。しかし、以下の事実を知ったとき、自分自身がなさなければならないことは何か、それに気が付いたのです。COVID-19が発生したことで、各国でロックダウン政策が取られ、その結果として縫製工場では多くの注文がキャンセルされました。それにより、大勢の労働者が解雇されたのです。たとえば、ヨーロッパの輸入業者からは、31億8000万ドル(約4,000億円)の注文がキャンセルされました。キャンセルされた10億枚の衣服はただのゴミとして処理されます。発注していた輸入元は経済的損害に対してなんら責任を負いません。最終的に、国内の179の工場が閉鎖され、7万人もの労働者が職を失いました。バングラデシュでは、約400万人が縫製工場で雇用されていますが、その大部分は女性であり、その多くは農村出身で読み書きをすることができません。解雇された彼らがスムーズに他の職を見つけられるかどうか、現実は非常に厳しいものがあります。メディアなどが報道する情報は、現地のことすべてをカバーできているわけではなく、また、メディアで報告されている情報すべてが必ずしも正しいものとは限りません。実際に、私は母国のこうした状況をメディアから正しく知ることはできませんでした。私は友人や親戚から、現在のバングラデシュにおける失業者の苦しみについて初めて聞き、とても心が痛みました。何より悲しかったのは、知ろうと思わなければ彼らの声に気づけなかったということです。私は日本にいるだけで、彼らに対して何もすることができませんでした。しかし彼らを助けるのは私の義務であり、使命なのです。たとえそれが小さなことだとしても、私は努力しなければなりません。そこで私は、一時的ではありますが、工場を解雇されてしまった人々を支援するプロジェクトを開始する決意をしました。本当に必要とする人々に食料を提供し、精神的にも安心してもらいたいと考えています。経済状況が落ち着きを取り戻し、これまで通りに再び経済が稼働し始めたとき、熱心に仕事に向き合ってきた人々が再び仕事を見つけ、生き残ることができるように、支援することが私の義務です。しかし、これは一時的な解決策にすぎません。長期的な解決策を得るためには、サプライチェーンの仕組みと消費者が支払う価格、両方の根本的な改革が必要だと感じています。低価格で洋服を大量生産するファストファッションの店舗で売られる衣服は、過酷な労働条件下で作られた可能性があるからです。ラナ・プラザの悲劇について触れましたが、労働者が最終的に死に至ってしまうような条件面で働かざるを得ない背景には、様々な問題が絡んでいます。それは、発注元の企業と、下請け工場間だけの問題ではありません。そこには「消費者」の存在が大きく関わっているのです。リーマンショック以降、いかに安く商品を買うかが、消費者にとっての関心事になりました。特に低価格で購入できるファッションへの需要は目覚ましいものがありました。すぐに日本や各国のアパレル企業は低コストで安い洋服を作れるよう、人件費の安いバングラデシュなどの国々を対象に工場を立ち上げました。それにより出来上がってしまったのは、安いものを求める消費者の欲求と、それに応えるべく人件費などを抑えようとする企業の関係性であり、消費者の欲求が加熱すればするほど、しわ寄せは製造元である工場の労働者が受け、過酷な労働環境を強いられることとなったのです。もちろん、すべての工場がそうだとは言いません。環境が改善され、有意義に仕事をしている人々もいると思います。しかし現実にはまだまだ改善の見通しの立っていない工場もあり、そうしたことを知るよしもない消費者が多くいるのです。私は、今すぐに安い服を買うのをやめてほしい、と伝えたいわけではありません。ただ、知ってほしいのです。"Garments Factory in Bangladesh", by Wikimedia commons, licensed under CC BY-SA 3.0皆さんが身に着けている服がどこで作られたのか。どんな環境にいる人が作ったのか。企業がどのような方法で、どのように商品を生み出すか、それをコントロールできるのは一般消費者なのです。過酷な状況下で作られた服を選ぶのか。適正に取引されて作られた服を選ぶのか。すべては消費者である皆さんの選択にかかっているのです。子供の頃、朝学校に行く時と夜帰宅する時に会った多くの縫製労働者たちのことをよく覚えています。 彼らはいつも素敵な笑顔で挨拶をしてくれました。疲れている時に彼らに会うと、いつも気持ちが落ち着きました。彼らが笑顔なのは、安定した生計を立てることができ、またお金と心に余裕があるからです。多くの労働者にとって、工場で継続的に働けるか、つまり、より良い労働条件で仕事を続けられるか、それは大変重要なことです。適正な給与で、適正な時間内に、環境の整った工場で働くことができれば、より多くの女性が就職し、たくさんの機会に満ちた人生を送ることができると思うのです。世界中のアパレル産業を支え、頑張ってきた縫製産業の労働者たちが、労働環境や条件に悩むのではなく、働く喜びに生き生きとしていて欲しい。あの、土埃が舞うにぎやかな街で、大勢の人が生き生きと働きに向かうあの姿を、私は甦らせたいのです。ビダノンド財団との出会いバングラデシュの状況改善に取り組む組織や団体は多くありますが、有事の際に私の考えに共感し、手伝ってくれる組織をすぐに見つけることは、通常であれば困難なことでしょう。しかし、私はCOVID-19以前から、すでにある財団と出会っていました。これはとても幸運なことです。すぐさま協力を仰ぐことができる財団を事前に知っておくことができたのですから。数年前、私は毎月貯めていたお金を使って孤児を助けることができないか考えていたのですが、それが財団を知ったきっかけでした。「ビダノンド財団(Bidyanondo Foundation)」という財団のFacebookページを見つけたところ、あるプロジェクトが進行中であることがわかりました。そのプロジェクトは、月額2,300円で子供の教育を支援することができるというものでした。私はすぐにドナーになることを決め、私のお金で、教育を必要としている子供たちを支援できることを非常に嬉しく思いました。そして今回、バングラデシュ社会に大きな貢献を果たしてきたビダノンド財団と協力する絶好の機会が訪れたのです。ビダノンド財団は、バングラデシュでも大きな非営利ボランティア組織です。ビダノンド財団は、孤児院6校、学校11校、病院1棟、縫製工場1棟を運営しています。現在、財団が行っているプロジェクトは12個あり、“Ak takay ahar(1タカで食事)”というプロジェクトでは、貧しく食事をすることが出来ない人々すべてを対象に、一食約1.3円で食事を提供し、また女性の方には約7円で生理用品を提供しています。また、“Bashonty Nibash(黄色い家)”というプロジェクトでは、一日約76円で宿泊できる、女性向けの安全な住宅可のホテルが建設されました。財団では、難民への衣料品や食糧の提供、そして医療援助など、様々な社会活動を実施しているのです。そんな彼らは活動するにあたり、以下のコンセプトを述べてます。「私たちは、支援対象者である人々に誇りをもって生きてほしい。だから無償で物事を提供するのではなく、必ず1タカのお金を請求します」安くとも自分自身でお金を支払い、対価を得ることで、自分たちを物乞いとして否定的に見ないようにする・・・そうした配慮をもとに、財団の人々は活動をしているのです。2013年の創設以来、ビダノンド財団は私たちのような一般の人々からの支援により運営され、世界中からも100万近くの人々が関わっています。関係者全員が、バングラデシュの人々を支援し、多くの人々の助けになるように全力で活動しているのです。図: ビダノンド財団の水上病院。図:ビダノンド財団のスタッフが貧しい人々のために料理をしています。今回、私は財団と相談し、COVID-19の影響で解雇されてしまった縫製工場の労働者を支援するプロジェクトを立ち上げます。第1フェーズでは100世帯に対し、第2フェーズではさらに100世帯に対し、15日間の十分な食料を提供する予定です。対象となる地域は、縫製産業に大きく生活を依存してきたミルプール市です。ここで暮らす人々に食料を提供することで、食べ物の心配をなくし、今後に対する長期的な解決策について考える精神的な余裕をもたらしたいと考えています。私はこのプロジェクトを通じ、突然解雇された多くの縫製労働者の苦労や困難にスポットライトがあたり、「買い物」について改めて考えるきっかけになればと願っています。消費者にはどんな商品を買うのかを選択する自由があり、また同時に、買った商品が作られた背景への責任が発生します。たとえば、悪い労働環境で作られた商品を買うのか。それとも、フェアトレード精神や、永く使えるよう想いを込めて作られた商品を買うのか。その選択は、単純に作られた環境への配慮になるのではなく、買った人自身の未来に、そして大切な人の未来に関わると思います。バングラデシュの縫製工場で働く人たちと、皆さんが実際に出会い、お互いの生活について語り合うことはきっとないでしょう。しかし、皆さんが身に着けている洋服は、もしかしたら彼らが縫い上げた服かもしれません。服を通じ、私たちは繋がっているのです。もし、あなたが自分の洋服のタグを見て、そこに私の国の名前を見つけたのなら、作り手がどんな人たちなのか、想像してみてくれたなら嬉しく思います。そして、私の物語で、みなさんがこれからの未来を考え、行動するきっかけになってくれたなら、みなさんへ心からのありがとうの想いを届けたいです。