お金と時間の使い方
資本主義の社会の中、生活していく上でお金を使うことは避けられない。私たちは当たり前のようにお金を使って生活しているが、どうやってお金の使い方を学んだのだろうか。もう覚えてもいないが、おそらく最初は近所へのお使いを頼まれ、お金を支払うと対価が貰えることを理解したのだと思う。算数の授業では、300円あったら100円のリンゴがいくつ買えますか?という例題だったし、お小遣いを貰うようになると、その範囲で何を買うことができるかだったり、足りないのであれば、お小遣いを貯めて欲しいものを買うというように計画することを学んだ。それで、お金の使い方を知ったと思っていたが、もしかすると、知ったのは物の買い方だったかも知れない。時間の使い方はどうだろう。私は18才で親元を離れて、専門学校に通うため一人暮らしをしてから学校以外の時間は、バイト・遊びに大半の時間を使っていた。というよりも時間はお金と違い、生きていれば過ぎていくため、意識して使っていたわけではなく、結果的に時間が過ぎていたといった方が正しい。就職してからも、帰宅したらテレビを見ながら晩酌。たまにジムへ行き、金曜は痛飲。その結果、土曜は昼過ぎに目覚め、日曜は街へ買い物に行ったり、友人と食事をするなど、そういった過ごし方をしていた。何に対して時間を使うかを意識せず、その場の思い付きで決めていた。私はとにかくお金と時間の使い方がうまくなかった。一時の快楽、外見を着飾るため、そういったことにお金と時間を使っていた。物質によって得られた喜びは長続きせず、消費を繰り返す日々だった。釈然としない気持ちを抱えていたが、それがなぜだか分からず、環境を変えれば何か変わるかもしれないと、シェアハウスを転々としていた。何か変わりたいともがいている時、無知な若者に付け込む大人からの耳ざわりの良い言葉をそのまま信じ、気付くと生活は良くなるどころか困窮していった。一時は仕事をするための帰りの電車代もないほどで、1カ月後の給料の支払いを待つこともできず、日雇いの仕事、そしてできるだけ賃金が高い夜勤をすることしか出来なかった。1m四方のダンボールに入った郵便物を仕分けるという仕事で、封筒も大量にあるとかなりの重さとなり、腰は痛いし、怒鳴りながらダンボールを蹴る人もいて、とても夢や希望が抱けるような環境ではなかった。自分が不甲斐なくて、夜勤明けに泣きながら帰ったことを覚えている。私の故郷は、自転車の鍵どころか、玄関の鍵を閉めなくても問題なしというような平和な田舎だった(上京して、靴箱に鍵をかけることに驚いた)のだが、こういった経験を経て、世間というものが少しわかり、まずはとにかく生活を立て直す為に努力した。数年経ち、娯楽にもお金が使えるようになり、最初のうちは自由が手に入れられたような気がして楽しかった。ただ、段々と虚しさを感じるようになった。自分のためだけに使っていても、それはそれ以上にはならず、一時の高揚感を得るだけだということに気付いた。お金・時間、これまでより1人でも2人でも多くの人が幸せになれる使い方をしたいと思うようになった。それは結果として自身を豊かにすることにも繋がると思う。また、最近はSNSを通じた、アルバイトと称した犯罪に青少年が手を染めるということもニュースで聞き、未来ある若者が無知ゆえに事件に巻き込まれてしまうのは心が苦しい。良心を持つ人の声が、多くの人に届く世の中になってほしいと願う。