二人の女を見よ

二人の女を見よ

菊枝、という名のその女は、新潟県のとある農家に生まれた。とても裕福な家で大事に育てられた彼女は、一通りの花嫁修業を積んだのち、福島県のとある小さな風呂屋に嫁ぐこととなった。風呂屋は、おがくずを燃料に昼から深夜まで湯を沸かし続け、色々な客が湯あみに来たものだった。八百屋や、豆腐屋、竹屋、床屋、そしてヤのつく稼業の人々などが毎日「花の湯」の暖簾をくぐっていたので、それなりに繁盛していたのだろう。菊枝は朝から晩まで番台に立ち、風呂屋から徒歩10秒ほどの所にある自宅を往復しながら家事もこなす、大変に忙しい日々を送っていた。そんな彼女も、気が付けばたくさんの子宝に恵まれ、育児も行いながらさらに怒涛の毎日を過ごすことになる。もともと立派な家で教育を受けてきた彼女は、子どもたちにはしっかりとした教育を受けさせてやりたい、という信念があった。しかし繁盛しているとは云え、収入は微々たるもので、風呂屋の経営だけではとても賄えないそのお金をどう工面したかと云うと、日がな一日、番台に座りながら内職をしたり、着物を縫うことで副業することにしたのだった。……夫はと云えば、竈から火が消えないよう火の守りをしながら、家で酒を飲んでいたので。それでも菊枝は何一つ文句を云うことなく、朝から晩まで、仕事に、家事に、育児に、すべてを見事にやり遂げ、四人の子どもを大学まで行かせたのだった。――話変わって、今度は千枝子という名の女の話をする。千枝子は山形県の生まれで、薬学部を出て薬剤師となった。そんな彼女は、どういう経緯だったかは忘れたが、京都で俳優を目指していた薬剤師と出会い、結婚することになった。彼女が嫁いだ先が、実は元武家の屋敷で、それも京都にある屋敷だったもので、それはそれは酷い嫁いびりに遭った。それがあんまりにも酷いので、ある日、彼女は夫と二人で駆け落ちし、福島県まで都落ちしたのだった。たどり着いた先で二人は薬局を立ち上げ、三人の子ども(内、一人は前妻の子どもだった)を育て上げた。菊枝と、千枝子が出会ったのは、彼女らの子どもが結婚することになったからだ。結婚し、働きながら複数の子どもを産み育て、巣立たせたその先で、彼女たちの暮らしが変わったかと云えば、何一つ変わらなかった。二人は相変わらず仕事に励み続けた。菊枝の場合、銭湯・花の湯がやがて建物の老朽化に伴い、廃業せざるを得なくなるまで毎日番台に上がり続けたし、その後、マンションに住まいを移してからも昔からのお客さんの依頼で着物を縫い続けた。2011年3月11日に起こった東日本大震災を機に、もともと症状が出始めていたアルツハイマーが悪化するまで、働き続けた。また、千枝子の場合、高齢になったことと、大型チェーンのドラッグストアの拡大によって経営が悪化したことで自営の薬局を畳まざるを得なくなったが、八十歳になるまで薬剤師を誇りに他店の薬局で働き続けた。時に心臓の発作で入院することもあったが、退院したら無理のない範囲で薬局に勤め、それは彼女が急性の病で亡くなる一、二年ほど前まで続いた。菊枝と千枝子の二人に共通しているのは、生まれ故郷から離れ、巡り巡って福島という地に根を下ろすことになったこともそうだが、何より、その仕事ぶりの素晴らしさにあると思う。十代の後半か、二十代の前半に結婚してから、亡くなるまでの約六十年間、千枝子においては「仕事だけは絶対に辞めたくない」と、信念をもって働いていた。菊枝は、働くことにどんな想いがあったかは分からない。けれど、一畳半程の小さな番台の席で、着物を縫ったり、余った布で巾着や人形を作ったりと、常に創作活動に勤しんでいて、新しいものを生み出すことが好きだったのだろうと、ぼんやりとそう思う。昭和の時代を駆け抜けた二人は、よく働き、よく生きた。そんな彼女たちと比較して、私はまだ生きることで精いっぱいなのだが、菊枝と千枝子の二人の血が自分に流れていると思うと、救われるような気になる。働くとは何たるか。二人の祖母の人生をただ想う。