震災が発生した際にどう対処しますか?
震災はいつ発生するかわからない
2011年 3月11日。東北を中心に日本列島に大打撃を与え、約1万5000人の被災者を出した、忘れもしない「東日本大震災」。今回は私が東北震災経験者から聞いた、被災の現実とその対処について皆さんにお伝えしていきたいと思います。冒頭の文を読んで、「私には関係ない」と思った皆さん。震災がいつくるのか、どれだけの被害が出るのか、それは地震が発生して初めてわかるものです。発生してから対処法を学ぶことは不可能ですし、誤った行動一つで自分の好きな人、家族、友人の命を落としてしまうことを改めてご認識いただきたいです。そして、本記事を参考にすることで一人でも多くの命が救われることを祈っています。私がお話を聞いたのは、石巻にある大川小学校での被災状況についてです。東北大震災の被害で、当校の学生74人と先生10人が死亡および行方不明になりました。「ガタガタガタガタ」という音で地震が発生した当初は、避難訓練と同様でまだ笑いのある雰囲気でしたが、一時避難の机、二次避難の校庭と進むにつれ、次第に生徒の表情にも不安が出てきました。雪の降りそうな気温の中で、上着を着る暇もなく外に出された生徒たちは、体調不良に不安も相まって、嘔吐や吐き気、失禁などの症状が出てくる学生もいました。先生たちの中で、次の移動や対応方法について話し合いが行われ、①津波の心配はないからグランドに残る。②津波を考慮し高い場所へ移動する。の二つの可能性で話し合いが進んでいきました。話し合いの論点や内容は分かりませんが、結果としては①の対応となり、一旦はグランドに残る方針となりました。防災知見のある先生や一部生徒からは、高い山へ登るべきだという強い意見も出てきましたが、話は翻らずグランドで地震が落ち着くのを待つ、先行きの見えない不安な時間が過ぎていきました。何分か経ち、行政の担当者から「津波が来るぞ!!!」という連絡があり、不安な気持ちに拍車をかけられつつも、校長や先生たちの話し合いが再度行われました。そこでの結論は学校から10分ほど歩いたところにある「広いスペースのある三角州への移動」でした。三角州は川辺に位置し、津波の退避場所としてふさわしくない場所であることは明らかでしたが、津波への焦りや不安の精神状態で正常な判断ができなかった可能性もあります。しかし、一つ確実に言えるのは第三次避難場所を明確に指定していなかったことです。他校でもあるのですが、第三次避難場所として「付近の公園」や「行政指定の避難場所」など、一目で見てわかる明確な場所を指定していないことが多々あります。三角州への移動経路ももちろん明確になっていなかったため、その場の判断で、先生の誘導で向かいましたが、入った経路は行き止まりの場所でした。間近に迫る津波の恐怖と大勢の生徒が隊列を組んでいるため、なかなか後戻りも難しい状況。「ゴーーー―ッ」とそのまま津波が地区全体に押し寄せ、学校を破壊し、多くの生徒と先生が巻き込まれました。一部の生き残った人たちは多くが山に避難していた人で、皆口をそろえて「高台に避難していれば助かった」と言っていたと聞いています。多くの被害にあった大川小学校での被災ですが、第三次避難場所を指定しておく、高台の避難を優先する、生徒・先生の災害に対する教育など事前に実践しておけば、1人の犠牲者も出さずに、生き残れたかもしれません。今回は学校を舞台にお話をしておりますが、津波の恐れがある時は高台に避難するなど、被災時の対処法や知識を学んでおけば、1人でも多くの命を救うことが出来ると思います。東北大震災の歴史から学んだことは私たちの代で絶やすことなく、自分の子供や教え子など、後世の方々にも伝えていただけると嬉しいです。