染織工房『空蝉』

染織工房『空蝉』

染織工房『空蝉』は、奈良の東吉野村で2017年に開設されました。現在、工房として使われているのは、一軒の古い民家。100年以上前から、人から人に継承されてきました。自然とともに共生を果たしてきたこの家の裏には、染め物に欠かせない水が湧き、四季折々の美しい樹木や草花、山の恵みをいただきながら、繭から糸を引き、日本古来の伝統的な手法で織物が織られ、染めが行われています。工房の代表を務めるのは、宇都宮 弘子さん。自然に囲まれる暮らしのなかで、自然からの恵みを頂きながら作品づくりや、染織ワークショップなどを行ってきましたが、現在、「衣・食・住」体験を分かち合える工房づくりに着手し始めました。それは、これまで提供してきた染織体験に加え、・鳥の声や森の梢に耳を澄ませながら、自然のなかで暮らす体験・糸の材料となる植物や、草木染めの染料となる植物の栽培・植林をする体験・東吉野で活動されている工芸家や職人、アーティストたちとコラボし、工房をシェアし合う体験・環境負荷の少ないエネルギーや、天然素材(地元の吉野杉やヒノキ、漆喰)を使った工房づくりの体験これらの体験をもたらす、新たな取り組みです。──形が残って、一から十まで自分でできる手仕事をしたかったのそう笑顔をこぼす宇都宮さんですが、もともと、染織を家業とし、牧歌的な暮らしをしていたわけではありません。そこには、東京を中心に活動し、生きてきた彼女の人生を変える、2つの大きなきっかけがありました。Life2011年3月11日に発生した、東日本大震災。原子力発電所の事故により、多くの人がエネルギーのことを見直す、一つのきっかけになりました。宇都宮さんもその一人。原発事故をきっかけに、地震大国である日本にどれだけの数の原子力発電所があるのかを知り、原発に依存する危険性を考えるようになったのです。実際に、原発のあり方を変えられないかと考えたり、再生可能エネルギーの会社を立ち上げたりすることも考えました。本気で、日本のエネルギー問題を変えたいと思っていたのです。しかし、日本の状況を変えることは並大抵のことではありません。時に無力感に打ちひしがれるなかで、宇都宮さんは一つの考えに辿り着きました。──国や社会を変えるのではなく、自分が変わろう。ちょっと節電する、から、自分の暮らしを変え、「私 × 何十億人」の規模で存続できる暮らし方を実践していくことを考えたのです。一方的に、「反対」や「断絶」を叫ぶだけでは、反発を生むこともあります。そこで、自分でまずやってみる、という想いから、環境に配慮した生活を模索するようになっていきました。これが、彼女の今後を変える一つのきっかけとなりました。そして、もう一つのきっかけは、日中間の政治問題にありました。宇都宮さんは大学卒業後、東京の百貨店に入社しました。その後、様々な経験を経るなかで、香港映画と衝撃の出会いを果たすこととなります。1980年代当時、海外では中国圏映画のニューウェイブが起こり、世界の主要映画祭を席巻していましたが、日本ではまだまだ知られていない状況にありました。映画への情熱に突き動かされた彼女は、自分自身で映画会社を立ち上げ、国内での上映に奔走し始めます。その仕事ぶりは目覚ましく、無名だった映画作品や監督の名前は、日本中に知れ渡ることとなります。その後、映画製作にも進出を始め、ある年、日中共同での映画製作プロジェクトがスタート。日本映画を代表するような監督や、日中それぞれ素晴らしい俳優の参加も決まり、話題作となる手応えも感じていました。しかし、ここで政治的な問題が生じます。「尖閣諸島」にまつわる問題です。これにより、映画製作が頓挫し、最終的には映画会社を閉鎖することとなったのです。NO ART, NO LIFE──さあ、何をしようか?人生の25年間を映画という仕事に捧げてきた宇都宮さん。映画会社の清算に際し、失ってしまったものも数知れません。知人から、映画の仕事に誘われることもありましたが、お世話になってきた人々の多い東京で、これからも生きていくことに対する罪悪感もあり、映画から離れてまっさらになりたいという想いがありました。「一から十まで、自分一人でできる仕事」がしたいと、宇都宮さんは考えるようになりました。それも、形の残る、手仕事がしたい、と。そんなとき、手元から見つけたものが、着物や染織に関する本でした。会社を畳む際に様々な本を処分したなか、なぜかこれらの書物が5冊だけ、あったのです。そして、その一冊が、人間国宝でもある、志村ふくみさんの本でした。自然からの恵みを頂いて、美しいものを生み出す染織家・志村ふくみさん。彼女の本を読み返したとき、宇都宮さんのなかに点々と存在していた想いや、過去の経験が、一線に結ばれる感覚が起こりました。映画の仕事で海外のパーティーに着物で参加し、その美しさを喜んでもらえた日のこと。自然との暮らしを、自らがまず実践するのだという想い。そして、25年間の人生を捧げてきた、映画という美しいものたち。──自分の手で、美しいものに触れ、手掛けられたらどれだけ素敵だろう?宇都宮さんは、本を携えて、東京を後にしました。生きる、を学ぶ早朝はパン屋さん、夜は市営の温泉施設などで働き、それ以外の時間は、染織学校で技術を学ぶ生活が、愛媛で始まりました。愛媛は宇都宮さんの故郷でもあります。そこで「シルク博物館」という染織学校を知り、一から学ぶことを決めたのです。学校で教えられていたのは、昔ながらの方法で行われる手仕事でした。手回しの座繰り器で糸を引く。引いた糸を草木で染める。色づいた糸で布を織る。織りあがった布を縫い、着物に仕立てる。糸を引くには、繭という蚕さんの命を頂く必要があり、布を染めるには草や木などの大地の恵みを頂く必要があります。手で触れ、匂いを感じ、仕上がったものを目に映すなかで、宇都宮さんは、自分自身が自然の一部になるような感覚におぼれました。それは、とても心地の良いことでした。過去、会社員として仕事をしていたとき、宇都宮さんが大切にしていたことは「効率」でした。機械で済むことは機械に任せ、創造性が求められる部分を中心に仕事をする。当時はそうした働き方が大切だと思っていました。しかし──何時間も糸を紡ぎ、布を織り、縫製をするなかで痛む身体も、染色で色づいた指先も、それはすべて愛おしいものでした。古の時代に帰ろう、というわけではありません。しかし、人間の手、その手が為す仕事の素晴らしさは、貴重なものだと感じたのです。そしてそれは、人としての豊かな生き方を学ぶことでもありました。こうして、新たに手仕事の世界に飛び込んだ宇都宮さん。学ぶ日々はあっという間に過ぎ去り、気が付けば4年と半年の月日が経過していました。“エシヌ”で生きるエシヌ、それは「吉野」の古名で、「美しい野や山」を意味する言葉です。染織工房を持つために、宇都宮さんが辿り着いたのは、その名のごとく、壮麗な場所でした。村の方に紹介され、訪れた古民家を見て、宇都宮さんは一目で気に入りました。彼女が何より感銘を受けたのは、家の外に流れる湧き水です。水道水はカルキを含んでいるため使えません。染織には水が欠かせませんが、必要な天然水がしとどに湧き出ているのを見て、ここだ、と感じたそうです。また、この地には、1300年ほど前に建てられた「丹生川上神社」という、水の神様を祭るお社があります。『日本書紀』では、こちらの神社の神域である「夢淵」が登場し、神武天皇が大和を統一できるかを占ったという逸話が載っています。導かれるように、宇都宮さんは東吉野村の古民家で染織を始めました。そして2017年、染織工房『空蝉』が開かれたのです。作品づくりをする傍らで、染織体験のワークショップも行いました。庭で育てた藍の葉の汁を絞って水色の布を染め上げる ── 染色は、森のなかで行われることもあります。自然と一体になりながら、自然からの天然素材で作品を作る。それは何よりの体験です。しかし、古い民家を拠点に、活動するなかで、大変な想いをすることもあります。例えば、冬の時期。水場が外にあるため、震えながら作業をしなければなりません。古民家を借りた当初は、屋根さえあればいい、という思いもあり、不便な面はあまり気にしていませんでした。また、この先ずっと、この古民家で暮らしていくかどうか、迷う気持ちもあり、修繕のためにお金や手間がかかることから、不便さをそのままにしてきたという側面があったのです。その迷いを断ち切ることになったのは、COVID-19の影響がありました。なかなか外に出られず、村に留まる状況のなかで、あらためて工房を囲む山の四季折々の美しさに感動し、清浄な空気を体いっぱい吸えることに感謝し、「この家にちゃんと手を入れてあげて、ここをみんなが集える場所にしたい」という思いが強くなったのです。ただ工房を便利な空間にするのではなく、自然のなかでクリエイティブな行いをする素晴らしさや、田舎体験の豊かさなどをより体感できる場所にする。そして、循環型のエネルギーが搭載された工房へ進化させる。また、東吉野村では「クリエイティブビレッジ」が提唱されており、多くのクリエイターが集まる場所でもあります。工芸家や、デザイナー、建築関係者などが近くで活動しているため、彼らとコラボレーションし、体験をシェアできる工房づくりをしたいと考えたのです。そうして、「衣・食・住」体験を分かち合える工房づくりのプロジェクトがここにスタートしました。想いを受け継ぎ、託す「大自然の中で、自然からいただいたもので染めたり織ったりしていると、太古から紡がれてきた人々の営みという縦糸と、今自分が暮らす自然という横糸の交わる一点に存在できているのだと、なんとも言えない安心感、幸福感のようなもので満たされるんです」日本古来から続いてきた染織を通し、宇都宮さんはその歓びを語ってくれました。会社員として、映画人として仕事を行い、挫折し、そしていま、偶然とも必然ともいえる出逢いによって染織という新たな道を選んだ宇都宮さん。ここ、東吉野で山の空気を胸いっぱいに吸い込み、暴力的に生い茂る葛のつたから糸を紡いだり、隣人から分けてもらった大切な桜で染織したりするなかで、「人も自然も豊かに」生きてゆくことは可能だと確信しました。村内外の人と繋がりながら、伝統的な手仕事の継承、豊かな田舎暮らしの実践をより多くの人と分かちあえる場を作りたいと、工房づくりのための活動を進めています。いずれ、次の世代に、この技術と文化を引き継いでいきたい──自分の手で何かを生み出す「手仕事」は、人に自信と喜びをもたらしてくれる。その実感を学んだいま、次は多くの人とシェアしていきたい。それが宇都宮さんの想いです。彼女に共感し、彼女の工房づくりに興味を持っていただけたなら、ぜひ、このプロジェクトにご参加ください。あなたの人生の1ページが、新たな色で染まる体験ができることを、お約束します。プロジェクトページはこちら====================宇都宮 弘子広島大学卒業後、東京の百貨店に入社。顧客とのコミュニケーションメディアの開発に従事。この分野での知見を深めるため、29歳でNYU留学を志しNYへ。大阪と東京を行き来する生活の中で香港映画に出会い、映画会社を立ち上げる。その後、東日本大震災、および、尖閣諸島問題をきっかけに映画会社を閉鎖。多くの方々に支えられながら、染織の道へ。2017年11月、東吉野村への移住をきっかけに、染織工房『空蝉』を開く。